LOT.117
熊谷 守一〈1880-1977〉
裸婦
[掲載文献]:『熊谷守一油彩画全作品集』P202 No.566 掲載(求龍堂:2004年)
〈作家・作品について〉
今回出品作《裸婦》は、昭和35 年(1960)、熊谷守一が80 歳の頃に描かれた作品である。
裸婦は両手を頭の後ろに置いて、両膝をつくポーズをとり、背景は中央上から右下にかけて直線で区切られ、右側は黄土色、左側からは緑で色分けされている。裸婦の肌色、髪の青色、そして背景の黄土と緑というシンプルな配色であるが、色のコントラストによって裸婦の存在が強調され、画家が追求した「かたち」が際立つ。
裸婦の顔は描かれていないが、同じモチーフの他作品でも省略されることが多く、その理由として熊谷自身が「情が移るから」と語っている。そこには、特定の個人や感情などを表そうとするのではなく、あくまでも裸婦の「かたち」、すなわち人体のやわらかさなどを表現しようとする画家の姿勢があった。
本作でも、単純化された描線が裸婦の丸みを帯びた輪郭を明らかにし、さらに髪や背景の直線が、核心を捉えた曲線を引き立てる効果を見ることができるだろう。本作は、観察を通じてあらゆるものの「かたち」を探求した画家らしさを存分に味わえる1 作である。
裸婦は守一にとって主要なテーマのひとつで、画家の道へと歩みだす20 代から晩年に至るまで描き続けた。
もともと西洋絵画において、裸婦は美を象徴する重要なモチーフであり、デッサンなどの基礎課題でもあった。明治期の日本に西洋文化が導入されると、東京美術学校西洋画科では美術教育の中心として裸婦が位置づけられ、明治33 年(1900)に同科に入学した守一も必然的に取り組んでアカデミックな画風の作品をいくつも残している。
しかし卒業後、守一は模索の日々へと陥り、絵がほとんど描けずに故郷の岐阜の山林で数年働いたり、長年貧しい生活を送った。そして昭和に入ってから、友人に勧められて手がけた水墨画や日本画が転機となり、日本画で用いた太い輪郭線を油彩画に取り入れたりすることで、75 歳で「モリカズ様式」と呼ばれる独自のスタイルを確立する。「モリカズ様式」は、描きだした輪郭線を塗り残すように絵の具を置き、簡潔な形態と明瞭な色彩を特徴とする。さらに76 歳の時に軽い脳卒中を起こすと、回復後は自宅の庭で過ごす時間が増え、庭に生える草花や、小さな虫や動物たちを画題とするようになった。「モリカズ様式」で描かれたそれらは、シンプルな造形のなかに確かな生命感が宿り、命あるものの「かたち」を画家が捉えていたことがうかがえる。
守一の画業の変遷は、生涯にわたって描かれた裸婦像からも辿ることができ、「モリカズ様式」の作品では、草花や動物とは異なる、裸婦だけがもつ「かたち」が表わされる。今回出品作も、熟考された裸婦の「かたち」から、画家が見つめた命の姿を見る者に伝えてくれるであろう。