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上村 松園〈1875-1949〉
美人之図
〈作品について〉
女性として初めての文化勲章を受章し、その子ども上村松篁から孫の上村淳之へと三代続く日本画家の家系の礎となった上村松園。 松園に限らず、作家の中にはその地位を確立すると「日本画五山」「東の魯山人、西の半泥子」などのように総称で呼ばれることがあり、松園の場合についていえばその画壇での地位を確立して以降「西の松園、東の清方」「三都三園」「閨秀画家の三園」「閨秀画家の双璧」「東西画壇の華」など様々な言い回しで表現されており、このことは、如何に松園が画家として稀有な存在であり、日本画、特に美人画を語るうえで欠かすことのできない人物であったかということを最も分かりやすく示す一つ好例であるといえよう。
今年で生誕150 年を迎える上村松園は1875 年( 明治8 年) に京都、四条通り御幸町に生まれる。明治10 年前後の京都は既に都の地位を失って久しく、人々はどこか意気消沈していた。しかしながら、千年の都であったという誇り自体が消えることはなく、日本文化の担い手であるという想いは常に京都の人々の意識の根底にあったようである。画家の生家は茶葉屋であり、松園の母である女主人が茶を入れてくれるという店でもあったため、茶を買いに来た客が腰を据えて、客同士の間で世間話に花が咲いていた。そんな人々に囲まれた状況で、母の傍らで絵を描いて過ごしていた松園は自然とその京文化と伝統意識を吸収したようであり、この原体験が後の作品にも大きな影響を及ぼしている。そのため、研究者の加藤一雄が「松園の芸術は京菓子・京友禅と同じで、千年王城の地の文化が生んだものである」と画家を称したのは、至極的を射た表現であると言えるであろう。
1887 年( 明治20 年) になると、松園は母親の支えもあって京都府画学校に入学し、最初の師である鈴木松年と出会う。松園の本名は津禰( つね) であるが、松園という画号は松年の「松」と生家の茶葉屋に因んだ「園」を組み合わせたところからきており、その後、幸野楳嶺、竹内栖鳳へと師事することになる。松園の作風において注目すべき点の一つは、日本画の伝統に則った作風を守りながらも、同時に浮世絵からも多くのことを学び自身の作品へと昇華していったという点にある。しかしながら、「女性は美しければ良いという気持ちで描いたことは一度もない。一点の卑俗なところもなく清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである」という言葉を残した画家は、浮世絵による生き生きと描かれた江戸庶民の嗜みを参考にしながらも、その卑俗的な要素は、自身の作品から排除していった。つまり、誤解を恐れずにいうのならば、松園の作品と浮世絵との決定的な違いはその作品に付与された「品格」にあるのである。
赤い着物を着た女性が細く長い指を襖にかけて顔を覗かせている。着物には春を感じさせる桜の柄が描かれており、口紅の赤と着物の赤とが呼応する。髷を纏める元結には白と黒が使用され、花簪と笄で島田髷が作られている。島田髷の島田という名は、東海道五十三次のひとつ島田宿の女郎に由来するというもの、寛永年間 (1624 年-1643 年) の女形、島田万吉・花吉・甚吉の舞台での扮装に由来するというもの、髷の根を強く締め束ねたところから「しめた」の転訛を由来とするなど諸説あるが、古くは類似した髪型が古墳時代の女性の埴輪にもみれら、江戸時代の初期になると未成年男子の髪型であった「若衆髷」を遊女が取り入れ、女性向けに改良したところからたちまち大流行が起き、特に未婚女性の定番の髪型となっていたようである。
松園が自身の作品について「その絵を見ていると邪念のおこらない、またよこしまな心をもっている人でも、その絵に感化されて邪念が清められる・・・といった絵こそ私の願うところのものである」という言葉を残しているとおり、本作品で描かれる女性もまた、若い女性の凛とした姿が見事に描き出されているという点において既に卓越した逸品であるといえるが、もう一点の見どころであり、肝ともなっているのが、掛け軸の表具も自ら選定したといわれる松園による作品と表具との取り合わせの妙であろう。
本作品の表具部分( 中廻し部分) にはその上部、左上、下部に桜の花の刺繍が施されている。この桜の刺繍の存在によって、本作品には赤い着物を着た若い女性がただ襖から顔を覗かせているのではなく、( 作品上では刺繍となっている) 桜を見るために女性が顔を覗かせているという情景が付与されているのである。
作品部分の襖はその上部が描ききられておらず、上方に向かって徐々に消失していくように描かれているが、掛軸の構造と展示のための手順を鑑みると、襖は上方に向かって徐々に消失していっているのではなく、寧ろ、上方から下方に向かって表出していっているという見方もでき、その観点からすると作品上部の余白にも大きな意味が見い出されるのである。つまり、鑑賞者が本作品を展示する際、まず、掛緒を任意の場所に固定し、軸先を両手で持ち徐々に掛軸を開いていく。その際、最初に見えるのが天部分にあしらわれた鳥の刺繍であり、更に進むと最初の桜の刺繍が見えてくる。この時点で我々は既に本作品からある種の季節感を感じることができ、さらに進むと作品部分にはなにも描かれていないが、中廻しの左に桜の刺繍が見え、そこにある桜の存在を意識させられる。そして漸く、襖の垂直線が見え始め、次いで桜の刺繍の施された赤い着物を着る若い女性が見え、
最後に中廻しの下部に桜の刺繍が見えるという構造になっている。
松園はかつて美人画の双璧と謳われる鏑木清方に「私の一生は姉様遊びをして過ごしたようなものです」という言葉を残している。この「姉様遊び」というのは、一般には人形の着物を着せ替えたり、髷を直したり取り替えたりして遊ぶことであるが、松園はその「姉様遊び」を日本画の美人画というジャンルにおいて究めた画家であった。それゆえ、画家の作品で描き出される女性たちは時代を捉えながらも現代においても人々を魅了するのであるが、その中でも本作品「美人之図」は、その卓越した技術と美的センスが上村松園ならではの発想によって作品およびその表具にまで広がりをみせる稀有な一例であるといえよう。
掛軸の作品は現在の住環境にそぐわず、床の間が家にないので展示できないという言説も蔓延る昨今であるが、果たしてそれは本当だろうか。左ページの展示イメージ画像のように床の間以外に掛軸をかけることもできるし、階段の踊り場やリビングの壁面など、「掛軸= 床の間」という固定概念から脱却し、ちょっとした工夫を凝らしてみれば、現在の住環境の中でも掛軸の作品を楽しむことのできる場所はいくらでも存在するはずである。また、掛軸を展示する、或いは仕舞う所作というものにも非常に趣があり、慣れてしまうと寧ろその動作にすら楽しみを見出せるものである。特に本作品のように表具にまで拘り抜かれた作品は、季節を迎え、作品を展示するたびにその喜びと楽しみを与えてくれる一幅となるであろう。