LOT.165
Léonard Foujita (藤田嗣治)〈1886-1968〉
Café-Billards, Rue du Ruisseau à Montmartre(ルイソー通りのビリヤード・カフェ、モンマルトル)
〈作品について〉
今回出品作《Café-Billards, Rue de Ruisseau à Montmartre(ルイソー通りのビリヤード・カフェ、モンマルトル)》は、1939 年6 月、藤田嗣治がパリに滞在していた時に描かれた作品である。この時のフランス暮らしはたった1 年で終わるので、その点のみでも本作は希少だが、再渡仏にかけた画家の決意と新境地の開拓をものがたる作例としての貴重性ももつ。そして、本作を描いた3 か月後にヨーロッパで第二次大戦が勃発し、翌年にはパリがドイツ軍に占領されてしまう歴史を鑑みれば、戦争前夜のパリに向けられた藤田の眼差し、さらに最初のパリ留学への追憶も感じさせ、さまざまな思いが交錯することを偲ばせる。
本作は、道路の交差点に面してカフェが建ち、カフェの左右に道が分かれて奥へとつづく街並みを描く。建物の輪郭はかすれぎみの太い線で
表され、白い壁はすすけたように灰色ににじみ、道路は余白を残しながら線状に塗られて奥行きを強調する。青空には筆触が残されてまだら模様となっていて、6 月というのに夏の明るさを感じさせず、白っぽい画面は虚ろな印象をただよわせる。その印象は人物の不在がさらに強めており、カフェの店外には椅子とテーブルが置かれているのに客はおらず、通行人もなく、加えて建物の窓は鎧戸やカーテンで閉めきられ、開いている窓も黒く塗りつぶされていて室内は見えない。
意識して表されたはずのこの空虚さは、制作当時のパリの空気感もあっただろう。一方で、本作に見える描写は、それまで画家が培ってきた画風から様相を変えており、新しい表現の研究ともとれるし、むしろ1 度目のパリ留学時への回帰とも見受けられる。
本作の制作背景には、1939 年5 月にパリに到着した画家が妻に語った希望が、大きなヒントとなるだろう。
「戦時下の日本を離れた今、もう一度エコール・ド・パリの時代のように自由に絵を描けるはずだ。そして、このパリで、今度こそ新しい境地を切り開きたい」
パリに着いて時を置かずに描かれた本作は、画家の再起の証ともいえる。
画家が懐かしがったエコール・ド・パリとは、20 世紀初頭のパリに世界中から集まった芸術家たちの総称で、彼らはそれぞれに独自の芸術スタイルを披露し、芸術の都パリの華やかな一時代を築き上げた。若き日の藤田も1913 年にパリにはじめて渡ると、エコール・ド・パリの中心地であったモンパルナスに居を構え、さまざまな最先端の美術運動に触れてゆく。しかし翌年より、ヨーロッパで第一次大戦がはじまると苦しい生活を強いられ、そのなかで自らの画風を構築することに専念した。その頃に描いていたのがパリを題材にした風景画で、人の姿もまばらな暗く寂寥感のある画面に、異国の地で過ごす不安や芸術を模索する焦燥を映し出す。
そして戦争が終わり1920 年代になると、藤田は「素晴らしい乳白色」と称賛される下地に、浮世絵に見られるような繊細な線で描き出した裸婦像を発表し、一躍パリ画壇の寵児となった。しかし1929 年の世界恐慌などのあおりを受け、パリを離れて南米へと旅立つ。アメリカ大陸、アジアを巡り、日本へ帰国するあいだに、画風はパリ時代から正反対の、鮮やかな色彩を塗り重ねる濃厚なものへと変化した。
しばらく日本で暮らしていた藤田だったが、1937 年に日中戦争がはじまり、1939 年の4 月には陸軍美術協会への参加を決めると、その直後に、パリ行きを宣言した。
当時、ヨーロッパはまだ戦争には至ってないものの、ナチスによるオーストリア併合など国際関係の緊張が強まり、パリも決して安全な場所とはいえなかった。それでもパリに向かう理由について、藤田は新聞で「国際親善の一役を買ってでる」と大義名分を表明しているが、本心は戦争に関連する制作しか許されなくなることを厭い、自身の芸術のさらなる発展を願ってのことであったと思われる。事実、フランスでは制作に没頭し、今回出品作のほかにも、いくつもの名作を生みだしていった。
この時代の作品は、十数匹の猫の乱闘を描いた《闘争(猫)》(1940 年)で最初のパリ時代の線描を取り戻しつつ、それまでにないダイナミックな動きを見せ、《猫のいる静物》(1939 年)では15 世紀フランドル絵画を彷彿とさせるなど、自他問わず、さまざまな表現を取り入れていることが指摘されている。それをふまえて、今回出品作を1 度目の留学初期の風景画と比較すると、画題や道路の描き方には近しさもある一方、色調は暗褐色から白色へと変化し、以前の風景画には描かれていた影法師のような人の姿さえも本作にはない。本作に見える新しい要素は、むしろエコール・ド・パリの一員であったモーリス・ユトリロの作品を思い起こさせるであろう。
ユトリロは生まれ育ったモンマルトルを題材に、哀愁ただよう風景画を数多く描き、とくに画家の全盛期と名高い「白の時代」(1908 ~1918 年)では、建物の白い壁が空虚さを印象づけ、画家自身の孤独をにじませた。ちょうどその頃、人間嫌いで人を決して入れなかったユトリロのアトリエに、藤田は自由に出入りしていたというエピソードがあり、その交友から20 年経て、ユトリロからの影響が本作に発露した可能性も考えられる。また本作が、藤田が青春を過ごしたモンパルナスでなくモンマルトルの風景である点も、ユトリロを意識したためと推察できなくもない。
留学当初を思いだしつつ再起を図った藤田であるが、パリはすでに昔の面影とは異なっていた。エコール・ド・パリの時代を支えていたユダヤ系の画家たちが、ナチスの台頭を危ぶんでヨーロッパを脱出し、芸術運動も下火となって、華やかな時代が終わりを迎えようとしていた。本作は、変わってしまう街へのノスタルジーと、近づいてくる戦争への不安を感じていたであろう画家の心情を映しだした、1939 年という特別な年だからこそ描かれた貴重な1 作である。