LOT.130
Léonard Foujita (藤田嗣治)〈1886-1968〉
Tête de Jeune Femme(女の顔)
[掲載文献]:
『LEONARD-TSUGUHARU FOUJITA (ACR Edition) Volume 2』P190, No.24.57 掲載 (Sylvie et Dominique Buisson:2001年)
[展覧会歴]:
『Foujita a Paris - パリのフジタ展』出品 / 同展覧会図録 No.11として掲載 (大丸大阪、日動画廊、名古屋松坂屋:1968年)
[来歴]:
Galerie Paul Pétridès (パリ)
日動画廊 (東京)
〈作家・作品について〉
フジタが初めてパリに渡ったのは、第一次世界大戦が勃発する前年の1913 年、画家が26 歳の頃であった。日本の伝統的な画材で表現される美しさを西洋の油絵の材料を用いながら表現する技法、つまり、手製のキャンバスの上に、日本画で用いる面相筆によって墨で細い輪郭線を描き、油絵具によって色をつけるという、かつて誰も考えもしなかった独自の表現を見出すことになる。油絵具でできた下地の上に水性の墨をのせるという段階で、フジタは何度も失敗を繰り返したが、度重なる実験の末に油性の下地の上にシッカロールをのせることで水と油との反発を防ぐことに成功し、その成果として生み出された日本の浮世絵にみられるような白く美しい肌の色とマチエールは「乳白色の肌」「素晴らしき乳白色」と称賛されることとなる。
このフジタの躍進の陰には多くの人々からの影響や支えが存在したが、そのうちの一人が、「モンパルナスの女王」「モンパルナスのキキ」としてフジタのみならずマン・レイやモディリアーニ、キスリングなどのモデルもつとめたアリス・プラン ( 愛称:キキ) である。
1901 年にフランスのブルゴーニュ地方コート=ドール県・シャティヨン=シュル=セーヌで生まれるが、祖母の下、貧困な環境で育つ。14 歳になる頃には母親との不仲から家を飛び出し、第一次世界大戦中はパリの画家・彫刻家の住居を転々と渡り歩きながら過ごしモデルとして有名になる。キキの陽気で開放的な性格は、当時のモンパルナスの人々が作り出す空気と親和性が高かったといえよう。
フジタとキキとの間に男女の関係はなかったが、お互いへの信頼関係の高さが窺えるエピソードはいくつか残されている。マン・レイがキキを撮影した「アングルのバイオリン」は特に有名であるが、フジタも作品「Nu à la toile de jouy( 寝室の裸婦キキ)」( 図1 参照) を1922 年のサロン・ドートンヌに出品し、一躍時の人となっている。すぐさま評判となったこの作品はその日のうちに8千フランで売れたとされているが、後になってフジタの手元へと戻り、1961 年にフジタよりパリ市に寄贈され、現在はパリ市立近代美術館の所蔵作品となっている作家にとっての記念碑的な作品といえるであろう。
「Nu à la toile de jouy( 寝室の裸婦キキ)」の制作から2 年後、1924 年に制作されたのが本作品「Têtede Jeune Femme」である。タイトルでは「若い女性の頭部」となっているが、前述した作品と見比べてみれば、女性がキキであることは明らかである。本作品だけを見れば女性が側頭部に手を添えているように見える描写も、全体像を見渡せば、ベッドに横たわった際に頭部を支えかたちで添えられた手であることがわかり、「Nu à la toile de jouy( 寝室の裸婦キキ)」でベッドの天蓋として印象的な働きをする装飾は本作品では背景として機能している。本作品がどのような経緯で制作されたかは明らかとなっていないが、全身の裸婦像である「Nu à latoile de jouy( 寝室の裸婦キキ)」とは異なり、女性の顔と装飾にフォーカスしていることから、何かしらの注文に応じて制作された可能性も残されるであろう。
2024 年を生きる我々にとって、丁度100 年前に制作された「Tête de Jeune Femme」。作品はいずれかの段階で日本へと渡り、1968 年に日本で開催された『Foujita a Paris - パリのフジタ展』にも出品されている貴重なものとなっているが、何よりも本作品を手にするということが、即ちフジタの名品「Nu à la toile de jouy( 寝室の裸婦キキ)」の一部を所有することと同義であるという事実を想像するだけで感慨深い心もちにさせられるのである。